みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

一人飯のタスク(2017年5月12日)

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 高校の時、教室でみかんを食べていても何も言われないのに、家から持ってきたグレープフルーツをむいて一人で食べていたら笑われた。グレープフルーツはなんかダメらしい。大きすぎて笑っちゃうのかもしれない。

 でもアメリカの学生なんかリンゴをズボンで拭いて丸かじりしたりしてるじゃないか、と思う。教室でリンゴを丸かじりしたことはないからわからない。日本のふじりんごは丸かじりするには大きすぎるし、やっぱり洗わないと何となく汚い気がする。そもそも、果物を一人で取り出して、一人でいきなりむしゃむしゃ食べ始めるというのが既にほんのちょっと面白い感じになってしまうのか。私は果物が大好きなので、その辺りをはっきりさせておいてもらわないと困る。

 教室で一人で昼食をとるのが恥ずかしいという気持ちがエスカレートするとトイレで飯を食うということになる。いわゆる便所飯だが、そこまでするなら食べなくてもいいのではないかとも思う。試しに一度やってみたことがあるが、個室に入る時にドアノブを触ったことが気になったり、包装を開けるガサガサいう音が周りに聞こえてばれるのではないかと不安になってとても飯どころではなかった。

 例えば大学で人間関係が悪化した人がいるとなると、学食でそいつに会いたくないがために学食に行くのが嫌になり、空き教室で食べるにもそいつがうろうろしている可能性も無きにしも非ずなどと考えると、トイレの個室くらいしか100%安心して一人になれる場所がないというのはある。結局、メンタルが悪化している時は飯を食わない、もしくは人が来ないどこかの庭や屋上などへ行って食べることになる。一緒に昼飯を食べる人が決まっていればここまで神経質にならずに済んだのかもしれないが、私は大学時代ほぼぼっちだったのだ。

 知り合いがいる環境で一人で飯を食べるのの何が気まずいって、「話しかけてよい状態に見える」ことだと思う。

 例えば、本を読んでいる人には話しかけにくい。これは、その人の意識のほとんど全部が本の世界に移行しているように見えるからで、この状態なら一人でいても「この人は本を読むことに集中している」と判断され、気持ちよく放っておいてもらえる。しかし、一人で飯を食っている状態は飯を口に運ぶ時以外は目線が浮いた状態になるため、まだ行動タスクに『余裕がある』ように見えてしまう。つまり、手持ち無沙汰しているように見えてしまうのだ。一人飯をする人はこれを避けるために、飯を食べながら新聞を読んだりスマホを見たり本を読んだりするということになる。「行儀が悪い」と思う人もいるかもしれないが、あれはそういう意味合いでやっているので大目に見てほしい(人と食べるときはやらないから)。

 もちろん知り合いがいる可能性のない場所での食事ならそこまで自意識過剰になる必要はないので、安心して一人飯に集中できる。自分から積極的にする一人飯ほど快適で楽しいものはない。たまに「一人で外食すること自体が耐えられない」という人がいるが、そういう人は一度漫画『孤独のグルメ』を読んでみて欲しい(ドラマでもいい)。仲の良い人と談笑しながら食べる飯はもちろんおいしいが、他人の意見をはさまず食べるペースなどに気を遣わず、自分が食事を味わっているという感覚だけに集中する行為は、とても奥が深く癒される娯楽なのだということがきっとお分かりいただけるだろう。