みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

ラクダとジープで函館へ(2017年7月21日)

f:id:michemiyache:20170721234509p:plain
 

 例えば砂漠のど真ん中でラクダ一頭と一緒に迷子になって、ラクダが突然一歩も動かなくなってしまったとする。私は、なぜラクダが動かなくなったのか、いくつか可能性を考える。疲れたのかもしれない。具合が悪いのかもしれない。私が何か気に障ることをしたのかもしれない。のどが渇いたのかもしれない。あるいは特に理由なんてないのかもしれない。

 とにかくそうしていても仕方ないので、とりあえずのどが渇いているのだと仮定して、ラクダに水を飲ませてみる。ラクダに水を飲ませて、5分待って動かなかったら別の可能性を考えると決めて、5分待つ。すると突然、地平線の向こうから1台のジープがこっちに向かって走ってきて、運転手が私に向かって言う。

「こんなところで何をしているんだ。ラクダなんて置いていけ。家に帰るぞ」

 何の話をしているかというと、人生にはそういうことがときどきあって、そういう場合にどうするべきかということなのだ。私は今ラクダの可能性について自分なりに考え始めたところで、水を飲んでもラクダが動かなかったらラクダをマッサージしようと考え始めていたところだった。もちろん、ラクダにかかずらっていたら死んでしまうかもしれないし、ジープに乗せてもらって帰ったほうが確実に家に帰れるに決まっている。しかし、そんなことは問題ではない。

ラクダは今水を飲んだところなので、あと少ししたらマッサージをします」

これが普段の私の返答になる。仮定を立てて問題に取り組んでいるときに問題そのものを取り上げられることに我慢がならないのだ。とげが刺さって痛いと泣いていた子供が、とげを抜いてもらってもしばらく痛いと言い続けるのと似ている。

 困るのは、自分の立てた仮定にばかり固執していると、『自分の立てられる仮定の範囲でしか身動きが取れなくなってしまう』、ということだ。誰かが助けに来ることを信じ切って何もしないのは愚かだが、せっかく助けが来てくれたのにそれを拒むのはもっと馬鹿げている。たまには、流れてきた何かに理由も付けずに「何となく」身を任せてみるのもいいのではないか。論理的な話し方は人を説得するのには向いているが、あまりにも辻褄が合いすぎている話というのはかえって嘘くさく反感を招くこともある。何年か前に、アパートで人を刺した犯人が「突然海鮮丼が食べたくなったので函館に行こうと思った」と供述していた。妙に説得力があったので何となく覚えている。きっと事実だろう。そんなものなんじゃないかと思うのだ。わかっているんだけれども。