みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

LOVEじゃない(2017年9月22日)

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「恋人たちが愛を語り合う」といった場合、自分がいかに相手を愛しているかとか、相手のどんなところが好きかとか、いわゆる愛情の確認行為をさしていることが多い。

「愛とは何だと思うか?」「どこからが愛か?」「愛と恋の違いは何か?」などの形而上学的な議論をすることは「愛を語り合う」とはあんまり言わない。

約款を作らなければ契約を結べないのと同じで、恋人になるにあたりお互いが愛についてどのような考え方を持っているかが明らかになっていなければ、「愛してる」の意味がはっきりしないし、そもそも関係自体がきちんと成り立たないのではないか。大してしゃべったこともないのに突然告白して「付き合ってください」という人がいるが、「インスタに載せたいから5分間だけ彼氏のフリしてください」から「結婚と5人の子供を前提として永久就職させてください」までのどこをさしているのかわからないのだから答えようがない。

普段から人々が愛についてどのような考え方を持っているかもっとオープンにしていれば、いない間にスマホを見たとか、こんなにメールがしつこいと思わなかったとか、結婚するつもりはなかったとかいったトラブルを未然に防げるかもしれない。愛について自分の言葉で語ることができるというのは、一つの礼儀であると思う。個人個人によって愛の定義は違うから、正しいとか間違っているとかいうことはない。大切なのは自分で説明できるということだ。

しかしながら、ここまで書いておいてなんだが、人の恋愛談義を聞くというのは実際ものすごく面倒くさい。恋バナが好きじゃない人からしたらクソほどどうでもいいので、聞くに堪えない。それを踏まえたうえで、できるだけうざくならないように、個人体験とか抜きにして抽象的な感じで、「愛とは何か」について私が考えたことをここにまとめておきます。

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人間は生きているうえで周囲の影響を受けている。影響を積極的に受けようとしたり、影響を受けることを許すことが『愛する』だと考える。影響を受けたくない相手から無理やり影響を受けさせられ続けるとそれは『憎しみ』になる。影響を受けたくない相手を遠ざけたり、無意識に視界から外そうとしたりすると『嫌悪』や『無関心』になる。

一方で影響を与えたい、愛されたいという欲も人間には存在する。ここで重要なのは、影響を受けるかどうかを選択するにあたっては相手側に主導権があるということだ。愛されるということが許されることと同義である以上、基本的には誰かに影響を与えようとしても一方的に無理に与えることはできない。アピールというのはあくまでも受動的な行為なのだ。

『本当に私以外私じゃないのか』でも書いたが、誰か(何か)を選び取って影響を受け続けると、それが自分の一部になっていく。それで、喪失した場合や喪失しかけた場合に愛に気づくということが多い。あまりにも自分の中で相手の占める割合が多くなると、失ったときに大きな痛みをともなう。

人間は自分からかけ離れたものや理解できないものでそれでも良さを感じられる(ここがちょっと曖昧)ものに出会うと、混乱して病気に感染したような状態になることがある。理解できないエリアで影響を受けたいと思えるものが観測されたとなると、早急にその周辺を『探索』しなければ不安で仕方がない。大いにひきつけられてしまう。この状態が恋だと思う。たぶん。似た者同士のカップルが恋をすっとばして最初から愛で成り立っているということもなくはないが、実際のところ恋という初期衝動がないと、恋人という関係になかなか移行しにくいところがある。幼馴染が恋人になりにくいというのはこれが原因ではないか。

「許す=愛する」と決めつけてしまうと、「じゃあパワハラやDVするやつも許さなければいけないんですか」ということになる。人と適切な距離をとることができないために不適切な行動に出てしまう人はたくさんいる。そういう場合に距離をとるということは、「嫌う」というのとは少し違うと思う。突き詰めて考えてみると、最終的に完ぺきな形での愛は、『祈る』という形式でしか成り立たないのではないか。嫌いな人がいてもいい、そいつがどこかで生きていてもいいという「許す」なら成立するのではないか。