みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

5000兆個/ぬいぐるみ(2020年9月20日)

 先日ホテルの洗面所で歯を磨いているとき、トイレに入りたくなった。オバケのぬいぐるみ型ポーチを洗面所に置いたまま入るか迷ったのだが、盗まれるかもしれないと思い、持ってトイレに入った。そのとき、ぬいぐるみが「ア……ちょっと くさいネ……」と言ったような気がした。

 思うのだが、Amazonか何かでぬいぐるみを売って、「しゃべりました!」というサクラレビューを大量に投稿したら、そのぬいぐるみは実際に喋るようになるんじゃないか。ボイスドロップ等の喋る機能は付いていないものでも、他の買った人がたくさん証言していたら「まさかとは思うがひょっとして」という希望が心に残って、ふとしたときにぬいぐるみが話しかけてきたように感じることがあると思うのだ。

 ぬいぐるみだけの話ではなく、私はモノにも意思があって、というより物質を構成している分子そのものに意思があって、人間や動物の場合は脳が身体の細胞全体の意思を統合しているから意識があるように感じているだけなのではないかと思っている。

 例えば今自分の体にくっついている腕は私の体の一部だが、交通事故でちぎれたらそれは「私」ではなくただの「モノ」になってしまう。逆に義手をつけて生活し始めたら、新しくくっつけられた義手は新たに「モノ」から「私」になったことになる。
この考え方からいくと、ぬいぐるみの組織が何かの拍子に私の意思として統合された場合、ぬいぐるみの声が聞こえてもおかしくない。

 以前「本当に私以外私じゃないのか」でも書いたが、世界が肉体の延長線上にある以上、この世界に私ではないモノは厳密には存在しない。
(よくベジタリアンの人で「植物は痛みを感じないから食べてもいい」という言い訳をする人がいるが、神経で統合されていないだけなんだとしたらそんな議論は何の意味もないと思ってしまう。豚や牛だって私とは神経で統合されていないからだ)

 脳は、自分の肉体とその周辺、認識できる限りのモノを意識として統合している。仮に世の中にモノが5000兆個あり、自分の意識に統合されているモノの数がnだとすると、自分にとって認識される世界は5000兆÷nで表すことができる。自分が大きくなればなるほど、世界は狭く感じられる。そして、自分の認識が0になる(死ぬ)と、認識が無限に拡大して世界になる。そう考えると壮大で何だか恐ろしいような気がしてくるが、私はオーケストラを演奏している人達や、サッカーの応援等で一体化して声を上げている人にも同じような恐怖を覚えることがある。群衆の中の一部として自分を認識するとき、意識が拡大していくのを感じる。たぶん死ぬときはアレの極大版みたいな感覚になるのだろう。怖くない人には怖くないのかもしれない。

 悲しいことがあってどうしようもないとき、「自分には何もない」と思ってしまうことがある。そんなときは騙されたと思って「モノに全部意思があったとしたら」と考えてみてほしい。周りに何一つモノがないなんてことはないと思うので、いろいろなモノで試せると思う。…気休めにしかならないかもしれないが。