みやけばなし

日々の記録とフラッシュフィクション

休職雑感(2024年8月8日)

休職開始から一か月、引き続き休職することになった。この一か月までで考えたことを、箇条書きでざっとまとめておく。

 

・最初の半月は食料の買い出しと郵便を取りに行く以外家からほとんど出ず、読みたいと思っていた本をとにかく読みまくった。フランツ・カフカ、ショーペン・ハウアー、ニーチェ石原吉郎の詩集、他にもいろいろたくさん。読書自体に飽きて「もういいかな」と感じ始めるまでに半月かかった。本から得たことを元にノートに書き殴って考え続け、自分は世の中をどう見ているか、自分にとって何が大切か、何が幸せかをようやくまとめることができた。このノートだけでも一生ものだと思う。

 

・7月の終わりあたりから出かけるようになった。8月頭からの大分旅行の帰り、

「老いることがそんなに恐ろしいか?」

という声が頭の中に響いた。東京に帰ってきて、総武線に乗っていたときだ。東京の電車の広告は、「シワを取れ」「毛を剃れ」「毛を植えろ」「学習しろ」と責め立てる。その中で、その声は反発として私の中からブロックの凹に対する凸のような影として浮かび上がってきたのかもしれなかった。人が老いることは、自然の摂理だ。人はいつか必ず老いるし、いつか必ず死ぬ。人間にはどうしようもないことだ。それなのに、なぜ恐れるのか?

(大分県別府の七つの地獄の1つ、血の池地獄。7つ全部巡ってきた。暑かった)

 

・大分旅行というのはついでで、本目的は大分に住んでいるF氏に会いに行くことだった。F氏が会話に何の脈絡もなく「Mrs. Green Appleの『心にも成長痛がある』みたいな曲、あれ良い曲だよね」と言った。たまたまBGMとしてMrs. Green Appleの曲が流れていたのかもしれない。しかし、妙に心に残っている。私の今の状況も、成長痛なのだと思えば少しは救われる。

 

・『「性格が悪い」とはどういうことか』(小塩 真司/著 筑摩書房)を読んだ。診断みたいなのをやってみた結果、サディズムは全く当てはまらなかったが、マキャベリアニズムはそこそこ、ナルシシズムとサイコパシーはかなり該当した。性格が悪いというのは単に悪口を言う人のことをさすので自分には当てはまらないと思っていたが、そうでもないらしい。自分は自己中心的な性格であることは認めざるを得ない。それは要するに「性格が悪い」ということだ。

 

The CureのHow Beautiful You Areという曲。「何で君のことキライになったのか話すね。灰色の親子連れが僕達のことを見てきたときがあったでしょ、あの人達は君のことを『何て美しい!』って目で見ていたのに、君は彼らに『あんな目で見てこないでほしい、あっちへ行かせて!』って言ったよね。だからだよ」という曲。要するに被害妄想なのだが、自分にもそういうところが大いにあるので、良くないなと思った。人を「自分を悪く見ている」と思うのは、その人が世の中を悪く見ていることの投影で、それは要するに心が汚いということになる。私の心は汚い。

 

・私は世の中の人をいじわるだと思い込みすぎる。考えてみれば、職場の同僚が人間として嫌いすぎて協力してタスクをやっつけようなんて気に全然なれていなかった。どうしたら時間外せずに逃げられるかばかり考えていた。労働条件の改悪も、「これを飲んだらさらにもっと悪い条件のところに行かされる」という恐怖が増幅して、どんどん怖くなってしまっていた。人を敵ではなく、仲間として捉えたいと思うようになった。

 

・基礎固めのためにギター練習アプリを始めた。いざ始めてみたらギターの弦を飛び飛びにアルペジオすることもできない。スカスカのパイ生地にヌガーを流し込んでいるような感じがする。理屈ではわかっているのに、実際やってみると底の底まで穴だらけで水面が全然上がってこないのだ。とにかく物理的な演奏時間というか、ギターを背負っている時間を確保すること。そして基礎練をちゃんとやること。大きな口を叩かないこと!

 

・『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』(ジョナサン・マレック/著 青土社)を読んだ。修道院の話が印象的だった。燃え尽きる職場の対照的な仕事として挙げられていた。Web写本サービスを「祈る時間を削ることになる」と断念し、「祈るということは2倍の速度ですれば良いという性質のものではない」という話を読んで、自分も仏門や修道院で働きたくなった(うちの家系は元々北海道の寺院なのだが、父親が『野球選手になりたい』と言い出して継がなかったため、今は知らない人が寺をしている)。祈るという行為は、そのこと以外のために行うことが不可能な行為だ。瞑想とはまた異なる。自分は無宗教だが、一日一度は自分に与えられているものについて祈る時間を設けようと思った。というより、もう自然にやっている。

 

We love our bread.(パンをありがとう)

We love our butter.(バターをありがとう)

But most of all,(そして何よりも)

We love each other.(よき仲間をありがとう)

(アニメ『マドレーヌ』より)

 

・最近どうもこの祈りのせいか、洋楽ばかり聴いているせいか、自分には仏教よりもキリスト教の方が向いているような気がしてきた。仏教は「この世はそもそも苦痛しかない、だからその苦痛をマシにすることを考えよう」という宗教なのに対し、キリスト教は「必要なものはすべて与えられている、それをどう生かすか考えよ」というスタンスで、自分にはどうも後者の方が生きる指針として使うには有用であるように思われる。大体この世が苦痛に溢れているなんてことは当たり前のことであって、そんなことはわざわざ言われても今更感がある。これは西洋人が仏教の良い点をマインドフルネス(瞑想)とかコールドシャワー(滝行)とかリネームして使いやすいように加工しているのと同じで、無いものねだりなのかもしれない。

 

・結局自分が不眠症になった理由だが、職場の要因の他に「考えに集中し始めたときにキリの良いところで切り上げることができなかった」というのも大いにあると思う。何か思いついたとき、「もう二度と思いつかないかもしれない」ということを怖がり過ぎた。私には、私が捉えきれるよりも多くの考えが降ってきてしまう。海の魚を全部持って帰ることができないのと同じだ。自分が食べきれる分だけ持ち帰るのだ。さもなければ、いつまでも魚を釣り続けて飢え死にすることになる。