みやけばなし

日々の記録とフラッシュフィクション

空白に耐える力(2024年6月2日)

「情報量が足りない」という苦痛を初めて意識したのは、小学校でアサガオの種を埋めたときだったと思う。

当たり前だがアサガオの種は埋めてからじっと見ていても、すぐには何も起こらない。早く生えてきて欲しいと願っても、埋めた初日にできることは何もないのだ。気になりすぎて埋めたあたりを指でつついてみたり、水を何回もあげてみたり、鉢を揺らしてみたりするが、それで早く芽が出るようにはならない。できることがないとわかって他のことに注意が移り、アサガオのことが意識にあがる頻度が減った頃ようやく、ふと鉢を見ると芽が出ている。その後も目で見つめていても何も動いていないように見えるのに、しばらく放っておいて久しぶりに見ると「だるまさんがころんだ」みたいに大きくなっている。植物というのはこういうものか、と思ったものだ。

 

 

娯楽にはそれぞれ、情報量の濃さというものがあると思う。

 

【レベル1】文章、絵、音楽など一度に1つのことを楽しむ娯楽

【レベル2】漫画・絵本・歌など2種類の情報形態を組み合わせた娯楽

【レベル3】動画・映画・SNSなど3種類以上の情報形態を組み合わせた娯楽

 

 この中でいうと「植物を育てる」はレベル1にあたる。

そして日頃から動画を浴びるように見ていると、同時にあびせられる情報量が多い娯楽ほど面白いと感じるようになり、次第に情報の少なさを苦痛に感じるようになるというのが私の持論だ。「音楽をかけないと勉強ができない」くらいなら昔からよく聞く話ではあったが、重篤になると「音楽をかけても本が読めない」「ライブに行っても目が暇なのでつまらないと感じる」「YouTubeを見ながらでないと食事ができない」「映画の会話がないシーンでスマホを触ってしまう」というように悪化していく。

 

 

ラッセルの『幸福論』に、 単調な生活に耐える能力の話が出てくる。

 

幼少期の喜びは,主として,子供自身が多少の努力と創意工夫によって,自分の環境から引き出すようなものでなければならない。興奮はさせるが,体はまったく動かさないような快楽,たとえば観劇などは,たまにしか与えるべきでない。この種の興奮は,麻薬に似ており,より多量に求められるようになるだろうし,興奮しているときに肉体を少しも動かさないというのは,本能に反する。子供が最もよく育つのは,若い苗木と同じく,邪魔されないで同じ土壌の中に置かれているときである。多すぎる旅行やあまりにも種々雑多な印象は,幼い子供たちにとってよくないし,成長するにつれて,実りある単調さに耐えることができなくしてしまう。

(中略)

何らかの真面目かつ建設的な目的を持っている青少年は,目的の達成の途上で必要だとわかれば,自主的に多くの退屈に耐えるだろう。だが,建設的な目的は,娯楽と浪費の生活を送っている少年の精神の中では,容易には芽ばえない。なぜなら,そのような場合は,考えがつねに次の快楽に向いており,遠くにある目的達成には向かわないからだ。以上のような理由で,退屈に耐えられない世代は,小人物の世代,即ち,自然のゆったりした過程から不当に切り離され,生き生きとした衝動が,花びんに生けられた切り花のように徐々にしなびていく世代となるだろう。  

 

暇さえあればYouTubeTikTok、アマプラやhuruなどの動画ばかり見てしまう私達現代人にとっては大変に身につまされる予言ではないか。

 

この「実りある単調さ(fruitful monotony)」というのは、モチベーションを云々するときにあまり取り沙汰されることがない。生徒が「勉強がつまらない」という相談をした場合、「じゃあどうしたら面白くなるか考えよっか」というのがスマートな良い先生というのが今の風潮だ。もちろんそれも大事だが、つまらないものはつまらない。いくらゲーミフィケーション等を駆使したところで、短期的には勉強がYouTubeより面白くなることはないことを認めるべきである。

 

では全くどうしようもないのかというとそうでもない。脳には作業興奮といって手を動かして初めて活性化するという特徴がある。そして周りの邪魔を排除して適度な目標を設定し、単一の作業をし続けることで極度の集中状態であるFLOWという状態に入ることができる。FLOWに入るとドーパミンがドバドバ出るので時間が飛んだような感覚になり、終わってみると「楽しかった」という印象すら発生する。

しかしFLOWに入るまでには作業を開始してからだいたい20分くらいかかるといわれている。つまり作業を開始して最初の20分は、意識が飛んでいないシラフの状態で「つまんねー」「スマホさわりてー」という情報追加の誘惑に耐えながら作業を続ける必要があるということだ。 この無味乾燥な空白に耐える力というのは、何かの技術を練習して会得したり、黙々と同じ作業を続けて作品を完成させたりということを考えたときほとんど必須といっていいくらい重要になってくる。

 

この集中力とも注意力とも微妙に違う「情報の薄さや空白に耐える力」を何というのか?しいて言えば意志力とか忍耐力とかだろうか。よくわからないが、この力を鍛える方法はいろいろあると思う。

 

・瞑想…おそらく最も純粋にこの力を鍛えられるトレーニングだと思われる。「座って目をつぶり、何もしない」という極限の空白状態を耐える練習を繰り返していくことで、情報量の薄い作業を20分耐えることも簡単にできるようになる。


・ミルクパズル…絵の描いていない真っ白なパズル。宇宙飛行士の試験に取り入れられたこともあるらしい。四隅のピースを見つける、形の特徴ごとに分けるなどある程度の方法論はあれど結局はしらみつぶしフェイズに延々と耐えることからは避けられないという点で想像しただけで苦痛である。これの良いところは、出来上がったところで真っ白なパズルができるというだけで、何ら予想から外れた成果も得られないことを考えるとますます憂鬱になるという点だと思う。同じような理由で穴を掘っては埋めることを繰り返すというのも効きそうな気がする。


・筋トレ…音楽をかけたり動画を見たりせず筋トレだけをする。鍛えている部位の筋肉に集中することでボディスキャン瞑想と同じ効果が得られる。と思う。


・ギター…ギターを弾いていると話すと「昔弾こうとしたんだけどFコードで挫折したんだよね」という人がものすごく多い。これはもう冒頭のアサガオの種くらいの気持ちでいいと思う。人差し指は側面を当てるとか親指の力も使うとか基本的なことだけ押さえたら、あとは一日数回確認するだけにしてストロークとかアルペジオとか別のことと並行して練習し続けて、ある日気がついたら鳴るようになっていた、くらいでいい。Fが最初から鳴るやつなんていないし、数ヶ月かけてFが鳴るようになったら次はBが待っている。


・植物を育てる…目で見てもわからないくらいものすごくゆっくり成長するというのがどういうことなのかを直感的に教えてくれる。

 

 

これらはサプリメント的なものなので、これらをやった上で実践として「一日の中で動画を見る時間を制限し、意図的に情報量の少ない娯楽を一度に一つだけやることに集中する」というのがいいと思う。

 

動画の視聴時間を減らすには、アプリの助けを借りるのも良い。例えばBlankPageというアプリは、URLを設定すると開いてもブランクのページが表示されて開けないようになる。これを使うことでスマホからはYouTubeを開けなくなるので、家に帰ってPCの画面から開くしかなくなり、動画試聴時間を大幅に減らすことができる。「完全に開けなくなるのはちょっと…」という人は、時間帯を設定することも可能だ。

BlankPage - スマホ依存対策

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「一生動画だけ見ていられればそれでいい」というのも人生ではあると思うが、他の娯楽を楽しめなくなったり何かに没頭できなくなるのはもったいない気がする。『減速して生きる』(高坂勝/著)という本に、「出ている月が沈んでゆくのをただ眺める」ことについての話が出てくるのだが、大昔の人はたぶんそういう時間の使い方をしていたのだろう。情報量が多ければ経験として豊かかといえば、そうでもないのだ。

私もそもそもこの話を書こうと思ったきっかけが、最近YouTubeをPremiumにして食事中にYouTubeを見るということを習慣化したらAudibleかYouTubeをかけながらでないとシャワーを浴びられなくなり「これはヤバイかもしれないぞ」と思ったことがそもそもの発端なので、定期的に自戒したい。

 

「とっても長い道路をうけもつことがあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」

しばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。

「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげてみるんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息がきれて、動けなくなってしまう。道路はまだのこっているのにな。こういうやり方は、いかんのだ。」

ここでしばらく考えこみます。それからようやく、さきをつづけます。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」

また一休みして、考え込み、それから、

「すると楽しくなってくる。これが大事なんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」

そしてまたまた長い休みをとってから、

「ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶおわっとる。どうやってやりとげたかは、自分でもわからんし、息もきれてない。」

ベッポはひとりうなずいて、こうむすびます。

「これがだいじなんだ。」
(『モモ』ミヒャエル・エンデ)