みやけばなし

日々の記録とフラッシュフィクション

認知的不協和ごっこ(2024年6月29日)

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一人で外食するとき、座らない方の椅子の背を引くという遊びをたまにする。こうすると、「観念上の誰か」が椅子に座る感覚があるのだ。
待って、読むのをやめないで、ちゃんと説明するから。

 

基本的にレストランで椅子の背を引くという動作は、自分が椅子に座るためか、物を置くためか、自分以外の誰かが椅子に座るのをエスコートするためにしか行われない。脳はこれまでの経験からそのように学習してきている。しかし椅子には誰も座らない。こういう自分の認識と行動にずれが生じている状態を認知的不協和という。


すると脳が「腕がそんなバカなことをするはずがない。目は認識していないが実際には誰かがここに居て、それを目が認識できていないだけだ」と無理矢理補完しようとし始めて、耳や肌や鼻などを総動員して「そこに誰かがいる」という証左を得ようとし始める。これが何とも言いがたい独特な感覚を生じさせるのだ。

 

よくわからない方はラーメンを食べ終わった後の器に残った油で遊んだことはあるだろうか、あれをイメージして欲しい。ラーメンの油を箸で押すと、油がハート型に切れて中に空洞としてのスープが入ってゆく。本来そこにあったものがなくなると、そこに空間が引き込まれて入っていく。視覚的に説明するとあれが一番感覚として近い。

 

それでもわからないという方は、絶対に誰もいるはずのない時間帯に自分の家に帰り、ドアのチャイムを鳴らしてみることを想像してみてほしい。何か感じないだろうか。たとえ住んでいるのが高層マンションでもオートロックでも、「いやでも返事が返ってきたらどうしよう…」という不安が湧いてこないか。一人暮らしの人は特に。その感覚のライト版で遊んでいるということである。

 

こういった遊びの残念なところは、あまりしょっちゅうやっているとだんだん慣れてしまうということだ。一人で食事をするたびに椅子の背を引いていると、流石に脳も学習して「うわまたやってるよ」と呆れ始める。なので思い出したときにやるくらいにした方が良い。さもないとどんどん繰り返すうちに、本当に誰かが座り始めてしまうかもしれない。

 

これは何も自分だけがやっていることではなくて、割と日本人は昔からこの感覚を利用することに馴染みがあるのではないかと思う。神棚や仏壇にわざわざご飯やお酒をお供えするのは、本来人がいない場所におもてなしをすることで「何かいる」ことを体感しやすくするための儀式なのだろう。「あー認知的不協和ですね」なんて、口に出しては言わないけれど。