みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

3.75アッポーペン(2020年8月2日)

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 葬式の最中に笑いそうになることがある。

「すごい果物が重なってるなあ。あれって遺族の人が用意してるのかな?差し入れで持ってきてるとは思えないし…でもあんな量の果物この後どうするんだろう?花は棺桶に入れたりするけど、果物もくべちゃうのかな?あれ、花入れるのってキリスト教だけだっけ?お腹空いたなあ…うわドリアンがある!あ、パイナップルかな?陰になってるからよく見えない…さすがに葬式にドリアンはないか…ドリアンがあの位置にあったら娘さん臭くないのかな、あんな近くに立ってて…娘さん美人だなあ!泣いてるから鼻詰まってるだろうし意外と大丈夫なのかな…ていうかパイナップルがあるってことは…うわやばいリンゴもある!りんごが1,2…3,4個、パイナップルが1…2,3。3個か…これだけ人が来てたら、香典書きとか記帳のためにペンを持ってる人が8人以上は確実にいるから、ペンパイナッポーアッポーペンが最大公約数で4組…でもパイナップルが1つ足りないから、3.75アッポーペンか…」

 上記の文章を笑わずに読むことができた人だけが、私を怒る資格があると思う。なぜなら上記の文章は、葬式の最中に私の脳内に自然発生する思考をそのまま文章化したものだからだ。

 これは「緊張を緩和するためにニヤニヤ笑ってしまう」というようないわゆる防衛反応とは異なり、ましてわざとふざけて面白いことを考えようとしているわけでも当然ない。

 葬式会場というのは非日常的な場所ではあるが、じっとしているので入ってくる情報量があまりない。故人との思い出や死後のことについて等考えることが一巡し終わると、考えることがなくなってしまう。すると脳が目の前の情報の中から自動的に考えることを探し始めてしまい、自分ではどうしようもないうちにろくでもないことがどんどん浮かんできてしまうのだ。

 これは私が悪いのではなく、私と同じようなことが葬式中に思い浮かんだら誰でも笑いそうになってしまうと思う。悪いのは私ではなく、浮かんでくる思考なので、私に責任はない。ということを今のパートナーに話したところ「汚言症じゃん?」と言われた。汚言症とは自分の意思に反して汚い言葉が口をついて出てしまう病気らしいのだが、口に出すまではいっていないからその予備軍といったところか。どちらかというと、統合失調症の自生思考の方が似ていると思う。

 同じようなことが人に怒られているときも起きやすいのだが、そっちはもっと困る。怒っている人というのは、感情の収まりがつかないと会話としては完結したはずのことを何度も繰り返ししてくるのだが、これも葬式と同じで聞いているとだんだん注意が別のことにそれていってしまう。ところで元の顔の造作が良い人というのは、怒っていても美人なものである。怒っている顔というのは美人の中のレアな一面なわけで、それに気がつくと怒られているのに顔がニコニコしてしまうのだ。それで「何を笑ってるんだ」と余計に怒られることになる。相手からしたらたまったものではないだろう。

 葬式にせよ喧嘩にせよ、私が真剣に取り組んでいないからそんな考えが浮かぶのだと言われてしまえばそれまでだ。今までの人生で、そこまでひどいいじめにあったことはないし、葬式の間中ずっと悲しくなるほど思い入れのある人物の死に直面したこともない。しかし、真剣さの問題ではないような気もしている。どんなに悲しいときでも、思いつくに足る何かを見てしまったら、思いついてしまうものは思いついてしまう気がする。パソコンでいうところの「バックグラウンドで起動している終了できないアプリケーション」のようなものだ。

 しかし私は小さい頃散々親に睨まれたり脚を蹴られたりしてしつけられたため、何とか自分でそれが外に出ないようにするという点では努力できていると思う。本当に小さかった頃は、下半身不随のいとこといっしょに寺の縁側をはいはいで競走していれば良かったが、大人になったらそういうわけにはいかない。具体的な努力としては、なるべく情報が入ってこないように目をつぶる、下唇を噛む、咳払いをする、速めの深呼吸をする、手を強く握って爪を手のひらに食い込ませる、両手で膝をつかむ等することで、かろうじて笑い出すことを耐えているのだ。人間の精神が加齢とともに成熟するなんて、本気で信じていいものなのか疑問に思えてくる。大人になった私の身体は葬式会場できちんと椅子に座っているが、意識は未だ椅子の周りを駆けずり回り、果物にペンを突き刺している。