みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

個人保全地域-パーソナルトラスト-(2020年9月27日)

Plastic Treeの曲は素晴らしい。
初期の曲はインク漏れしているペンで急いで書き殴ったような曲が多いが、その不器用さとエモさがたまらない。丁寧でゆっくりな曲はインク溜まりでボドボドで、それはそれでまたエモい。最近の曲はもはや聴く香水である。色香の量がおかしい。むせる。

 以前付き合っていた人にPlastic Tree を聴かせた際「曲は良いのにボーカルの声がオカマっぽくて気持ち悪い」と言われた瞬間、その人が嫌いになってしまったということがあった。
正確には嫌いになったというより、私はPlastic Tree を聴きすぎて血がPlastic Tree の曲と入れ替わってしまっているので、そこを否定されると「君のことは好きだけど、君の血は気持ち悪いね」と言われてるのと同じことになってしまうので、付き合えなくなってしまったのだ。

 ここまで言うほど好きなのに、ライブや雑誌を追うことはしていない。今までの経験上アーティスト本人自体の情報を知ることがマイナスに働いたことしかないので、周辺情報を知りたくない。本人が見えないくらい遠くから、曲だけ聴いていたい。ロックは好きだけどバンドマンは苦手、暴走族のファッションは好きだけど暴走族には入りたくない、ダンスミュージックは好きだが踊ることはできない、鑑賞姿勢としておかしいとは思うのだが、そういうことがとても多い。

 今はCDからサブスクリプションへの過渡期の時代だと思う。世の中のCDになっている音源が全部どこかしらのサブスクリプションに回収されてくれればまだいいのだが、民間頼りなので、流通からこぼれ落ちてしまう曲が大量に出てきている。それとサブスクリプションの根本的な問題として、提供元がやらかしたり、プラットフォーム側が機嫌を損ねたらすぐ配信停止になるのであてにならないということがある。やはり自分にとって「血」である曲はCDで持っておくべきではないか。そう考えて、最近Plastic Tree のアルバムを少しずつ買い集めるということを始めた。

 しかし改めて考えてみれば、そもそも「曲」を自分のものにしておこうなんて考えが傲慢なのかもしれない。レコードもなかったような時代には、曲は楽譜と演奏者の中にしかなくて、それが人々の中を改変されながら受け継がれてきたのだろう。本物の名曲なら同じ変遷で生き延びるはずだ。それはそうなのだが、「ある日突然」聴けなくなるのはやはり耐えられない。しかし、周辺情報を知りたくないなどと言っている自分が世の中に出回っているPlastic Tree のCDの5349528(適当)分の1を所有していてもいいものだろうか?

 ナショナルトラストという運動がある。貴重な自然や動物が残っている区域を開発から保全するために、有志がお金を出し合って土地を買い取ってしまうのだ。私がやっていることは、これに近いと思う。「私」という固有種(個人は全て固有種であり絶滅危惧種である)の生息区域を保全するために、CDや本を確保している。

 私の部屋には『かわいそうなぞう』の絵本がある。「あしたからせんそうがはじまります。としょかんにあるせんそうのほんは、ぜんぶもやすことになりました」ということになったら困るからだ。それは極端だとしても、要するに『かわいそうなぞう』は、世の中の評価に関係なく、絶対に世の中に一冊は存在していなければならない本なのだ。その気概に比べると、私はPlastic Tree のCDを持っていていいものか、未だにあまり自信がない。