みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

ボーン・万物(2020年10月4日)

 先日、旧知の友人から遊びの誘いがあったのだが、突然ヴィーガン思想の話を始められ、結局絶縁することになってしまった。

(ざっくりまとめると、ヴィーガニズムについては個人として実践するのは自由だが、他人に押し付けてほしくないというのが私の主張です。下記はほとんど私の備忘録として書いているものなので、あまり楽しい話ではないかもしれないということを先に宣言しておきます)

 まず、私は植物や動物や菌類という種族で差をつけるということ自体が本来はいけないことなのではないかと思っている。生け花もあまり好きではない。

 なので、ヴィーガンの人が主に主張する「動物には感情や痛みがあるので傷つけるべきではない」という思想がそもそも相容れない。「りんごの皮は剥けるのに牛の皮は自分の手で剥けないのか」という議論も同じことで、本来ならリンゴの木の皮にも同じ視点を向けなければならないのだと思う。倫理が逆なのだ。

 このように説明すると、次の段階として「肉の生産過程で家畜が食べる飼料としてより多くの植物が消費されるので、肉を食べることは植物をより多く消費することに繋がる」という反論がくることになる(そもそもこの反論自体が前述の「個体における感情と痛みの問題」とは無関係なエネルギー視点の話になってしまっており、論点ずらしの逃げであると思うのだがここでは目をつぶっておく)。

 確かに命の総数で見れば、肉を食べるよりも植物を食べたほうがよりエコであるということになり、つきつめていけばボーンチャイナカップ(牛の骨が入っている)も使うべきではないという話になってくるのだと思う。

 しかし、私はボーンチャイナカップが好きなのだ。

 即物的なモノの見方かもしれないが、木の机も好きだし、革ジャンを着ることもある。

 でもそれは、あくまで即物的な見方なので、エネルギーや感情の総量から見れば効率的ではないし、妥当ではない。

 しかし、だからこそ好きという面があるのだ。

 以前バイクはバカが乗るものでだからこそかけがえがないという記事を書いたが、バイクなどというものは、本当にこの世に存在する必要がない乗り物である。

 排ガスが出るし、バスに乗ったほうが安上がりだし、電気自動車や電車もあるし、細い道は自転車でいいし。しかもトヨタは20年後にはガソリンで走る自動車を作るのをやめるという。でもだからこそ「好き」なのだ。

 つまり、私がバイクを好きと思う感情は、効率とは完全に相反する「不便益」とでもいうべき個人の「エゴ」でしかない。そしてそのエゴを主張する限り、不合理だとか非効率だとかいう批判からは逃れられない。

 私がここまでモノの肩を持つのは、おそらく「この世に存在する分子自体に微小な意識が散らばっている」という世界観の元に生きているからだと思う。その価値観から行くと、「ガラスのコップには骨が入っていないがボーンチャイナカップには骨が入っているので使うべきではない」という言は、一種の出生差別のような響きを持って感じられる。万物は何になるかは成り行きによるところも大きいから、ボーンチャイナだって好きで牛の骨が入っているわけではないのではないか。

 ただ、「ヴィーガン思想について聞きたくないという主張自体が、モノしか見ていないというわけではない証拠だ」と言われたらそれまでだとも思う。本当にモノそのものしか見ていないなら、フォアグラの生産過程を見せられながらフォアグラを食べても味は変わらないはずだからだ(やったことはないが)。

 しかし、それを言うなら無限に一方的に価値観を否定され続けるのが健全な人間関係なのかということにも疑問がある。

 言われたことの中でも特に、

「不愉快になってもらうことに意味がある」

「すぐには難しいと思うけど」

 の二言がどうしても許せなかった。

 ずっと言い続ければやってくれると思っているのだろう。だが、知識があるかないかの問題ではないにも関わらず、知識があるかどうか、効率的であるかどうかを一歩的にジャッジされ続けるというのは、四六時中新興宗教の勧誘をされているのと何が違うのか?

 結局今の私では、彼女と健全な関係を維持することが困難だということになってしまった。何年か経って、もっと別の捉え方ができるようになったら変わるのだろうか。真面目に考えすぎなのかもしれない。

 今回のことを付き合っている人にに話したところ、

ヴィーガンの人ってさ、フェラできるのかな?だって肉だよね」

 と笑っていた。つよい。いや、たぶんそのぐらいのノリでいけば良かったのかもしれない。