みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

相対的マナー脚(2020年7月26日)

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 私の身長170cmは、日本人の平均からすると比較的高めな方だ。高いといえば高いが、ものすごく高いわけでもない。個人的には背が高いということは低いよりはいろいろと有利だと思っているのだが、あまり慢心していると「自分が取れるからと思って棚の高いところに本を置いてしまい、背の低い人が台を使わないと取れない」というような問題が発生する。

 たかぎなおこさん著の『150cmライフ。』という本には、低身長な人から見た世界が載っている。満員電車はつかまる場所がなく前後の人の胸板に押しつぶされてしまうこと、ライブの立ち見は全然見えないこと、暑い日は背の高い人の影で涼めること、小柄ならではの服のリメイクを楽しんだりできること等、私が知らない世界の姿がそこにあった。羨ましいと思うこともある一方で、背が高い側が少し気を付けるだけで、背が低い人の苦労はだいぶ緩和されるということにも思い至ってかなり申し訳なくなった。

 図書館で働いていたとき、大学図書館からベテランの司書が転任してきたことがあった。彼は高齢ながら身長が175cmくらいあり、「知識が豊富なのに腰が低く、人当たりのいい人だ」と評されていた。よく観察してみると会話している目の前の相手に合わせて膝を曲げ、目線を相手と同じ高さに合わせている。「物理的に」腰が低い人だったのだ。「自分は人より背が高い」ということにあまり自覚がなかった私は、その人の仕草を取り入れたほうがいいのか考えた。

 韓国では、背の高い人が低い人に目線を合わせるために脚を大きく広げて立つ「マナー脚」という文化があるらしい。しかし日本では聞いたことがないし、あまり露骨だとかえってナメられていると思われるような気もする。そのため私の場合、カウンター越しなど下半身が見えない場合は躊躇なく脚を広げたり膝を曲げたりして目線を下げ、そうでない場合は気づいたときにほんの少しだけ膝や腰を曲げるということをしている。これをやるようになってから、(特に年配の男性)に「態度が悪い」とか「上から目線な感じがする」と言われることが減った気がする。『150cmライフ。』にも、背の高い人と話すときの印象として「首が疲れる」「鼻の穴がよく見えてしまう」と書かれているので、目線を下げる意味はあると思うのだが、どうだろうか。

 そもそも170cmというのはいうほど高いわけでもないし、普通と思えば普通の範疇だ。現に私は「一番高い棚には本を置かないで」と言われるまで、それで困る人がいるということに気づかなかった。しかし、気が付かないということ自体が既に恩恵であり傲慢なのだ。社会の中で相対的に決まる中央値=正解ではないし、多くの人にとってそれが「普通」だからといって、それでは困る人をないがしろにする理由にはならない。

 あるいはみんな誰でも頭の中に「完全にマジョリティな人のテンプレ」として、「18歳の女子高生、嵐のファンで松潤スマホの待ち受けにしており、偏差値は55で趣味はインスタとYouTube鑑賞、修学旅行はディズニーランドに行きたいと思っている」とか、「35歳会社員、EXILEJ SOUL BROTHERSが好きで子供が二人おり、たまに地元の友だちと家族ぐるみの付き合いをして、昔はやんちゃだったが今は趣味はほどほどであり、夏の夜にはワゴンでキャンプ地に乗り付けてみんなでビアガーデンと花火をする」みたいなイメージを持っており、それに比べたら自分は普通ではないと思っているのだろう。しかし最近思うのだが、完全にマジョリティな人なんて、本当に存在するのだろうか?みんな言葉に出しては言わないけど、背が低かったり、家庭内暴力があったり、地域格差があったり、同性が好きだったり、小指が短かったり、尾骶骨がなかったり、膝が痛かったり、つむじが二つあったりと、誰しも必ず何らかの要素でマイノリティに該当していることがあって、だから「自分は普通ではない」と自己評価して、内心寂しい思いをしているのではないか。その一方で、自分は花粉症でないことについては、何とも思っていなかったりするのだ。

 マナー脚が私に必要なのか否かは、結局のところわからない。しかし、自分よがりにならないための心がけとして、これからも自主的に続けると思う。今年はコロナのせいで「完全にマジョリティな人の夏」はおそらくそうそう観測されないと思われるが、どっかの公園にでもでかけていって、こっそり花火くらいはしたいなと思っている。