みやけばなし

日々の記録とフラッシュフィクション

心臓をえぐり出すのにちょうど良い長さの刃物(2024年6月23日)

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何とこのブログ、もうすぐ9周年らしい。

媒体を何度か移行したりやめると言ってまた始めたりで断続的に続けてきたのでそんなに長くやっていると思っていなかったのだが、最近運営であるはてなブログさんのおすすめ記事にもちょくちょく取り上げて頂けるようになってきて、今になって徐々に読んでくれる方が増えてきた。いつもありがとうございます。

そこで今回は、自分がブログというか文章を書くときに気を付けていることについて、備忘録も兼ねてまとめておこうと思う。普段の記事よりかなり長くなるが、時間があるときにお付き合いいただきたい。

 

 

1.リテラシーと語彙

読者のことを考えるとき、リテラシーという言葉をあまり使いたくない。リテラシーという言葉は書く側が使うと「人間の読解能力」を値踏みしているような、上から目線な印象を与えるし、「この表現じゃリテラシーが低い人には伝わらないかな」とよぎった時点でその態度は文章ににじみ出てしまう気がする。そもそも私の文章は全て後で自分で読み返すことを主目的に書いており、余った分をせっかくなので人におすそ分けするという自己血輸血や家庭菜園のようなものでしかない。なのであくまで平易に、自分が初めて読んだ場合にわかりにくいとか勘違いさせるような表現がないかという目線で書く。

語彙については、口頭で読み上げられたときすぐに意味がわからないような表現はなるべく避けている。これもそんなに厳密なラインはなくて、「ケチ」をわざわざ「吝嗇(りんしょく)」と書かない、「一般的に好まれる」を「人口に膾炙(かいしゃ)した」などと書かないということだけ気を付ければそれで良い。想定している読者層にもよるだろうが、このブログとしては18歳以上くらいの読者を想定しており、高校生が読める程度の語彙で書けば十分であると考えている。

 

2.長さ

「こんなに長く書いたら読まれないんじゃないかな」という理由で書き終えた文章を無理やり短くする、ということは私はやっていない。読みやすさの話でいうなら、休日なら骨太な哲学書を読める人でも仕事で疲れて帰ってきた後は読解力が落ちるものだし、そもそもショート動画やSNSの短さに慣れて長い文章を読めなくなっている人が増えている、ということを念頭におくことも重要だろう。しかしそれだけで即ち「今の人類に最も適している文章の長さは140文字である」ということにはならないのではないか。

短いコンテンツが全部ダメと言っているわけではない。そんなことを言ったら短歌や俳句には芸術性がないということになってしまう。だが思い出してほしい、最後に文章を読んで泣いたのはいつか。おそらくインスタやTikTokの文章ではないはずだ。心臓をえぐり出すのにちょうどいい刃物の長さが人によって異なるように、琴線に響きやすいコンテンツとして適した長さは人によって違ってくる。それと同時に、ある主題を書きたいときにそれを書ききることができてかつ冗長な部分がない長さというのは、主題によっても決まってくるのではないかと私は考えている。

 

そういう意味で、高所から落ちた主人公が雪の上に落ちて助かるシーンでわざわざ「雪のおかげで助かった」と口に出させるのは、私にとって興ざめなのである。最近の私の記事で言えばDoing the Unstuckの和訳記事で「この曲は人間をそそのかす悪魔の視点で描かれており、聴き手に寄りそうと同時に怪獣映画で町が破壊されるのを見るようなカタルシスを与え…」などとわざわざ書くこともできた。でもそこまで書くとせっかく歌詞を読み終わった後の余韻に読む文章としては長すぎるし、歌詞を読めばわかることをわざわざ書く必要ないなと思い割愛した。詩や小説ならともかく、隙間時間にライトな感覚で読まれることが想定されるブログという形式で「これいる?」と思わせるようなセンテンスが続くと読み飛ばしたくなってくる。かといって言い換えや補足が不足していると今度は何を言っているのかわからな過ぎて読むこと自体をやめてしまう。究極的にはアメリカの名食器コレールのように、「ぶつけても美しいまま存続する」文章、つまり多少センテンスを読み飛ばしたり補完しきれなかったりしても意味が美しく通る文章が理想だ。

 

そこをいくと平沢進氏のツイートなどは短文として秀逸だと思う。表現のミルの粒度があまりに粗いまま出されるのでほとんど何を言っているのかわからないのに、毎回読了後に与える印象が「面白い」「何か良いことを言っている」なのはすごいとしか言いようがない。一方で氏は人生相談のツイートなどでは非常にわかりやすいレベルまで表現のミルを「細かく」している。これが意図的にできるのが本当に文章がうまい人だと思う。

 

3.題材

いくらミルの粗さにこだわったところで、使う豆が悪かったらコーヒーは台無しである。

というより、文章自体が上手いかどうかというのは小手先の話でしかないため、結局は題材さえ面白ければ面白い文章になることはほとんど確約されている。泡沫ギタリストの大して変わり映えのない雑感をつぶやき続けるエッセイ(このブログのこと)より、「世界各地に日本のカブトムシとクワガタムシを連れて行って戦わせTierリストを作る」というブログがあったら、読みやすさも長さも関係なく絶対に後者の方が読まれるに決まっている。

 

ちなみに私個人がネタをどうやって考えているかというと、日常生活の中で思いついたキーワードやアイデアをメモ帳に書き留めておいて、それをタイトルに据えて膨らませていくというやり方をすることが多い。問題なのはこのネタが降ってくる時間帯が年々朝方や真夜中に偏ってきているという点にある。このブログ冒頭の写真にあるように枕元にノート(ジャーナル用も兼ねている)とペンを置いて寝ているのだが、朝一や真夜中に目が覚めた瞬間に思いつくため、常夜灯を点けて急いで書き起こさなくてはならない。脳が何かを思いつくたびに叩き起こされるので、最近は土日の朝ルーティンの時間がどんどん後ろにずれていて誠に遺憾である。

 

あとは(私はあまりできていないのだが)あまりネガティブ寄りの題材は選ばないように心掛けた方が本当はいいと思う。

例えば私は『にじいろのさかな』という絵本が大キライである。しかしそれについて書いたところでいったい誰が読むのか?読んだことがある人は大概が不愉快になり、読んだことがない人も何ら有益な情報を得られない。それなら好きな本について書いた方が読了済みの人にとっても、これから読みたい本を探している人にとってもずっと良い。かくしてネットの「人に読まれることを想定している文章」は何かを褒めそやす方向に向かいがちであり、それがネットのコンテンツ全体の質を貧相にしている。

そのためこの圧力になるべく抵抗することを心掛けたいところだが、「こいついつも何かに文句言ってるな」という印象を自分をよく知らない人から持たれるのは、このインプレッション社会においてあまりにも不利益が大きすぎる。無理のない範囲で正直でいたい。

 

 

まとめ

長々と書いたものの、おそらく一番最後の題材さえ面白ければ形式的なことはそんなにこだわる必要がないのではないかと思う。あとはこれは気を付けていることではないのだが、文章を書いている人の人柄というか、「ずっと書いてきた自分が書いた文章だから何らかの筋は通るだろう」というぼんやりとした自信があって、それが地味ながら代替え不可能な要素になっているような気がする。有村竜太朗のエッセイ本を読んだとき、「この人は本当に素の性格が良いんだなあ」というのがにじみ出ていて、作為的な文章にはない素朴さがあってうらやましいなと思った。そういう何か通奏低音のようなものが自分のブログにもあるなら、輸血のように合わない人には合わないけど合う人には合うということで必要な人に届いてくれればいいなと思う。とはいえ全く反応がなかったらここまで続けてはこられなかったので、いつも読んで☆を付けてくれる人本当ありがとうございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。