「このくらい誰でもできるだろう、逆になぜみんなできないんだ」と思うことの中に才能はあるという。自分の場合、それは料理だと思う。
『生きのびるための事務』という本を最近読んだ。理想の人生を現実にすることを考える中で、現実の行為(事務)をどのように考え、いかに回すかという本だ。その中で、「米を炊いてコンビニで買ったシーチキンを乗せ、マヨネーズとあらびきコショウをかける」というメニューが貧乏飯として紹介されていた。
非常に合理的で無駄がない。シーチキンの動物性のうま味成分であるイノシン酸とマヨネーズのグルタミン酸との相乗効果が期待できる。塩分と脂肪分、そして香りの要素も兼ね備えている、とてもバランスのとれた料理だ。この人はおそらく普通に料理をしても上手いのだろうなと思う。
一方で、「もっとうまくやれるのでは?」とも思った。コンビニのシーチキンは高い。というより、缶詰が今すごく高い。同じたんぱく質なら、もっと安価でアミノ酸スコアの高い卵や納豆や鶏ひき肉を使った方がコスパが良く、長期的に見て健康にも良いのではないか。
こういう自分の知識や技術というのが、どうやら当たり前ではないらしいというのがわかってきたのは、大人になってからだった。大学生ぐらいの時期は知識欲が旺盛で見栄張りになるものなのか、友人達は白身魚のムニエルにやたらパセリをかけてみたり(後で蕁麻疹が出た)、外国の変な酒を通販してどんな料理が合うかと議論したりとわかりもしないくせに生意気なことをしていた。しかし卒業して働き始めてみると、自炊をしている友人の方が少なくなった。太りすぎたり痩せすぎたりしている人は年々増えていく一方だ。
アメリカの田舎はもっと酷くて、ワーキングプアの家庭が料理をする時間もないが子供には食べさせなければいけないというので、不健康な選択肢しかない中でファストフードやテイクアウトの不味くて高価で健康に良くない加工食品を食べざるを得ないという。日本の文化はアメリカの後を追う傾向があるので、ゆくゆくは同じような状況になっていくのではないか。
日本の環境はアメリカに比べたら明らかに恵まれている。スーパーに行けば肉も魚も野菜も、新鮮なものが年中安く手に入る。ただそれを活用することができなかったら、結局は外食やコンビニ飯で済ませるということになってしまう。「自炊はかえって高い」という人もいるが、作るメニューを工夫すればそんなことはない。そして特に一人暮らし始めたてで食費にお金をかけられない場合、自炊ができるかできないかはQOLに大きく関わってくる。タイトル通り、「生きのびるための自炊」という概念が存在するのだ。
私が生きている間にやりたいことの1つに、自分が持っているメニューや料理や食べ物についてのノウハウを全て放出してから死にたいというものがある。何から書けばいいのかまだ全くまとまっていないが、1つの記事には到底収まりきらないほど言いたいことは山ほどある。複数パートに分けて、小出しにしていきたい。