みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

エモ味深い味(2023年10月15日)

生身の人間が作った料理にしかない、『エモ味』とでもいうべき味覚があると思う。

名前のある料理を作るとき、最低限必要な材料がある。例えばハンバーグなら肉、スパゲッティなら麺、おかゆなら米が入っていなければそれはそれぞれの名前にならない。そしてその絶対必要な材料以外に何を入れるかは、作る人の裁量に任されている。そこに人間味というか、その人が作ることで生まれるブレのようなものが発生し始める。

レンジでチンするだけで食べられる冷凍ミールなら、ブレの生まれる余地はない。焼くだけで食べられるハンバーグ種や、混ぜて焼くだけで食べられるホットケーキミックスも、美味しいには美味しいがブレは生まれにくい。

最もブレが生まれる料理とは、たぶんスープだと思う。スープは、何を入れるかが完全に作る人の自由な料理だ。
何らかの出汁要素(昆布、かつお節、コンソメ等)にメインのタンパク質(肉か魚か卵)と任意の野菜(キャベツ、玉ねぎ、長ねぎ、白菜、ブロッコリー等)を入れ、そこに身体を温めたいから生姜を入れたり、カロリーを控えたいから生クリームをやめて牛乳で我慢したり、冷蔵庫で腐りかけていたからという理由で旅先で買った調味料の残りをぶちこんだりして煮る。
そうしてできる謎のスープは「それである」必然性を全然有していない。名前をつけることのできない、おそらく二度と作れない私だけのスープである。食べてみると、美味しかったり美味しくなかったりする。「淡白な食材ばっかりなのににんにくを入れちゃったからにんにくが目立ちすぎたな」とか、「トマトの酸味が飛んでないから逆に肉の旨みが引き出されている気がする」等、発見と言えるかも微妙な気づきが浮かんでは消えていくような味だ。そして食べ終わってみると、何故かすごく心が洗われたような気持ちになる。

チェーンのレストランでカレーライスを頼むと、誰もが思い描く「カレーライス」が出てくる。安定した美味しさが欲しいときもあるし、そういう基礎が確保されているのは食文化として大切なことだと思う。一方で個人経営の店だと「何でカレーにこんなに酢を入れるんだろう」とか「ここまで煮込むともうミートソースじゃなくてビーフシチューだな」とか、ものすごい「ブレ」を見せてくる店がある。
そういうとき、この料理の向こう側には人間がいて、「この人はこれが良いと思ったからこう作ったんだな」というクソデカ感情が、美味い不味いとは別の尺度として伝わってくることがある。それが不思議に心を癒してくれるのを感じると、「『エモ味』深い味だなぁ」と思う。

こういう「自分の口には合わなかったけど良い店だったからまた来たい」というとき、Googleの星レビューをどうつけたら良いのかとても困る。たまに「自分には合いませんでした」という理由で星1を付けているレビューを見るが、極端な店というのは誰かにとってはかけがえのない店である可能性もあるので、おおらかな気持ちで採点して欲しいと思う。