みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

親切のテトリス(2016年1月7日)

人に親切にするのはとても難しい。親切にする側にもされる側にも心の余裕がないとうまくいかない。
 ずいぶん前の話になるが、夜仕事を終えて家に歩いて帰る途中、前方に車椅子に乗っている人の後ろ姿が見えた。その日は朝から霧雨が降っていて、その人は傘をさしていなかった。
 声をかけるべきか?声をかけても、その後何て言えばいいんだ?傘に入れてあげたほうがいいのだろうか?
 車椅子は両手で車輪を回すことで動くから、傘をさせないのかもしれない。それとも持っているけど霧雨だからささないだけなのか?もう夜だしいきなり話しかけたら不審者だと思われるのでは?途中で誰か迎えに来るのかな?家はすぐそばなのか?というようなことをフルスロットルで考え続けた。その間私は電灯の灯りしかない暗い一本道をストーカーのようにその人の後ろを無言でゆっくり歩き続け、やがてその人は角を曲がって自宅らしきアパートの自転車小屋の奥に吸い込まれていった。
 結局どうすればよかったのか?話しかけるほどのことではなかったような気もする。しかしその日の夜、私は車椅子の後ろ姿が、霧雨の降る暗い夜道をゆっくりゆっくり進んでいく、そのことばかり考えていた。眠れないというほどではなかったけど。
 これと同じようなことが人生の中で何回もあった。そしてよくわかったのだが、人が困ってそうなところを何もしないと自分はとてつもなく後悔し、なかなか忘れられない。自己嫌悪とまではいかないが、なぜかどうでもいい時に思い出したりする。「そう言えばあの時電車で席譲らなかったな」という瞬間がある。席を譲った時のことはあまりよく覚えてないのに、満員電車で座ってうとうとしてたら隣の人が妊婦さんに席を譲ったことは鮮明に思い出せるのだ。親切にすべきかもしれない時に何もしなかったことが罪悪感になってテトリスのように蓄積されている気がする。ほとんど強迫観念に近い。
 今日、駅のエスカーレーターを降りていたら、エスカーレーターが終わるところで足をくじいてしまった人がいた。うずくまって痛そうにしているのに、みんなその人を避けてどんどん電車に乗り込んでいく。すぐに「大丈夫ですか」と聞いて、そばでおろおろしていた人に様子を見ていてくれるように頼み、駅員さんを呼びに行った。縦長の棒が穴にうまくはまったような安堵感に包まれた。全消しできる日は来るのだろうか。