みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

パラレルモノトップ(2017年3月31日)

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 モノを好きになるハードルが高い。

 ハードルが高いといってもハイカルチャーや値段が高いものほど好きなわけでもないのがやっかいだ。好きなアーティストとして名前を挙げるくらい好きだったら、そのアーティストの曲はだいたい全部好きなものだと思うだろう。それなのに、目当ての曲が入っているアルバムを買って聴いてみたら、そのアルバムの曲の中で目当てにしていた曲以外全然気に入らなかったりするのだ。だから「私はこのアーティストが好きです」と人に断言できる数がものすごく少ない。しかも気分によっても変わる。具合が悪い時に聴くと心に沁みた曲が、朝になったらもう聴きたくなくなっていたりする。

 私の日常生活の中の関心の99%は「何かしっくりくるものを探し出す」ということに向けられている。世の中で「今売れています!」と宣伝されているモノがほとんど納得いかない以上、少しでも快適に生活するために、そしてその見つけたモノを手に入れて『武装』するために、金と時間と思考を費やす。しかし、そうして集めたものは自分で気に入ったという以外の条件を何ら有しないので、他人にとっては何の価値もない。したがって商売にもならない。こんなことを続けていていいのかとも思うが、そうしないと娑婆の空気をそのまま吸っては気持ち悪くて生きていけないのだから仕方ない。

 心が疲れると、一人で何かを調べ続けるということが何の意味も発展性もない、むなしいことに思えることがある。こんなにいろいろ集めても誰の役にも立たないし、私が死んだらそのまま捨てられてしまうだろうとも考える。しかし、集めなくたって結局は同じではないか。誰かのモノだけ集めて生きても、結局は自分が一瞬目に見える形になるかならないかの違いだけだろう。だったら一瞬だけでも見える形にした方が楽しい。

 共有しにくいことがさみしいのかとも考える。そりゃあまったく何もない真っ白な部屋にずっと閉じ込められたりしたら、退屈だろうしさみしいだろう。しかし、川沿いにはたくさん草も木も生えているし、鳥もいるし虫もいるし、都会にいるのと同じくらい意識を向ける対象がある。意識を向ける対象があればさみしいとは感じない。最悪自分の意識さえあれば、紙とペンがあれば意識はいくつでも作り出すことができる。

 アスペルガー症候群の人は、人間を見たときに動く脳の部分がモノを見たときに動く部分と同じらしいがそんな感じなのかもしれない。

 私は人が嫌いなのではなく、モノが好きすぎるだけなのかもしれない。