先日、仕事帰りに花屋を通りかかった際、軒先のガーベラ二輪に札がかけられていた。
普段は花屋に寄ることなどめったに無いのだが、その二輪は一本ずつ小さな花瓶に生けられていて、まとめて容器に入れられている他の花たちとは分けてあったので目立っていた。札にはこう書かれていた。
「栄養剤 8日目
←なし あり→」
それを見た瞬間、突然自分の中に「つらい」という感情が巻き起こった。正確には「恥ずかしい」とか「暴れたい」とかが入り混じっているのだが、一番近いのが「つらい」で、そうとしか形容できない何かだった。
一体何が「つらい」のか。
冷静に考えれば、植物には痛覚や感情はないし、動物実験だって同じことをしている。
ただ、対照実験の場合のマウスは1対1で並べられるのに対して、この二輪の花は実験に参加させられていない他の花や、側を通る人間の目にさらされている。それが共感性羞恥を発生させてくるから、私は直感的に「つらい」と感じたのだろう。
周りの花には栄養剤をやっていない→右の一輪が「特別長生きしてほしい花」として択ばれたのか。それとも
周りの花には栄養剤をやっている→左の一輪が「早く枯れてもいい花」として択ばれたのか。
もし後者だとしたらと考えるととてつもなくつらい。たくさんの花に囲まれながら、一本だけ「この花は愛されていません」という看板を下げて衆目に何日も晒されるとは、前世でどんな悪行を働いたらそんな目にあうのか。
もちろん「こんなことは酷い、今すぐやめるべきだ」などという資格は私にはない。私はせめて、この花がどうなっていくか、できる限り毎日見ようと心がけた。
それから十日目にもなると、栄養剤なしのガーベラの中央部分が少ししぼんで小さくなったようだった。たぶんここが種に変わっていくのだろう。そして、「これ以上続けるのはやはり酷いのではないか」という気持ちが日に日に強くなっていくのを感じていた。
店員も同じ気持ちだったのか、あるいはそういう決まりなのかは不明だが、
十一日目の夕方、花屋にガーベラはいなかった。
代わりに薔薇の花が二輪、同じように「一日目 ←なし あり→」の札を下げて並んでいた。
薔薇はガーベラより力強い花だ。しおれてもしおれたなりに美しかったりする。この実験の対象としては適しているといえるのかもしれない。薔薇からは「隣の奴より少し早く死ぬくらいのことは何でもないですよ」というような、誇りと気概が感じられた。
薔薇は今日で三日目の朝を迎えたはずだ。今度は一体何が「つらい」のか、私にはまだ整理できていない。