みやけばなし

日々の記録とフラッシュフィクション

生まれてきたくて生まれてきたかもしれない(2023年2月19日)

 「どんな人でも誰かにとっての大切な人だから殺してはいけない」という理屈は、誰からも大切にされていない人なら殺しても構わないという暴論につながるので危うい。

 例えばこのブログを読んでいるあなたが、書いている私とは全く何の面識もない人だとしたら、きっと読んでいるあなたは私が死んだとしても何の感慨もないと思う。少なくとも身近な親類や友達や恋人やペットが死ぬよりは感情がわかないはずである。それは自然なことであるが、自然な感情だからこそ危うい。

 

一般的な葬式(特にキリスト教の式)では、生前その人がどんなに良い人でたくさんの人から愛されていたかが遺族の口から証言される。そうすることによって死んだ人が天国に行けるようにというお祈りになるということらしい。

 

 しかし、誰からも大切に思われていない人は実際にきっといる。しかもその人は今も生きていて、今日一日を過ごして夜を迎えている。その人が今夜死んでしまうとしたら、今までその人が生きてきた楽しかったこと辛かったことの意識の積み重なりの歴史が、一度に全部途絶えてしまう。そこに他人とのつながりの数や軽重は関係ないのではないかと思う。「自分がいると周りの人に迷惑がかかる」という配慮が大きくなった結果、福祉を受けることも拒み、死ぬこともできずに路上で生活しているのだとしたら、それはある意味やさしさの結果であって、裁きの対象になるのはちょっと違うんじゃないかと言いたくなる。

 

 つらいことがあるたびにずっと「きっと生まれてくる星を間違えたのだ」と思っていたが、最近そうではなくて、自分で好き好んでここに生まれて来たのではないかと思うようになった。たぶん、生まれてくる前に「そんなろくでもないところはやめろ」とか「酷い目にあうだけだぞ」と周りからさんざん止められて、それでも私は自分勝手に「たまにはちょっと不愉快な目にあいたいから」くらいの理由で生まれてきたのだと思う。旅行に来たくらいのノリで生まれてきてしまったのでどこに行っても全然所属感がないのも当然で、死んだ後できっといろいろなことを全部思い出すのだと思う。私個人は、そのような宗教観で生きている。