みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

拡散するハクビシン(2020年12月13日)

死ぬ間際に認知症になって何もかも忘れてしまったら、どんなに楽しい人生を送ってきていても無駄だったということになってしまうのだろうか。

 この疑問に関しては、個人の死生観によって答えが変わってくると思う。よくあるのが死んだあと天国に行って五体満足で健康な頃の身体イメージに戻るから全て思い出すというパターンだと思う。この死生観の人は、長生きして老衰で死んだ人はどのくらいの身体イメージで蘇ることを想定しているのだろう?あるいは意識だけの存在で、魂だけになるから身体は存在しないという認識なのだろうか。

 私個人としては、死ぬと意識が細胞と一緒に拡散して世界になると考えているので、「死んだあとには何も残らないよ」派だと言える。しかし人生に全く意味がないというのではなく、事実としての歴史には干渉できるし、思念としての意識は死後一定時間の間、場所やモノに定着することもあるんじゃないかと思っている。世界がビー玉がいくつか入った空き箱のようなものだとして、無限に箱が揺さぶられ続けて事象がいつか永劫回帰してしまうのだとしても、「頑張ったことも含めて事実と人生の歴史」なのだと思う。そういう価値観で生きていったほうが人生が楽しい。

 もっといろいろな死生観があるとは思うのだが、「結局のところ死んでみないとわからないよね」というのが最もフェアというか、間違いのない回答だろう。生きていて起きたり眠ったりしている今とは確実に意識のあり方は変わるだろうが、その他一切のことはわからない。もしかしたら、死んだ瞬間猫の裁判官がいる裁判所に移動して、「あなたは生前猫にこれだけの良いこと/悪いことをしましたにゃ」という理由で天国/地獄行きが決められるかもしれない。死んでみたことがない以上、「これをしたら天国に行ける」という類の宗教の教えというのは当てにならないのだ。

 仕事に向かう途中の朝、家の近くの道路に轢かれたハクビシンが倒れていたことがあった。ゼイゼイ苦しそうに息をしていて、血も出ていておそらくもう死んでしまうだろうというのが見て取れた。ハクビシンは害獣だからとか、病気を持っているかもしれないとかいうことも頭をよぎったが、せめてもと思い道の端に移動し、家からタオルを持ってきてかけてやった。この行為に何か意味があったのかと言われると、正直良くわからない。しかし、死んでいく直前に誰かに優しくされたことが最期の思い出になることは、拡散していくハクビシンに何らかの影響を与えたはずである。