みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

親切とお節介の間(2023年6月11日)

 正直なところ、親切とお節介の違いが全然わからない。行動してみて、相手が喜んだら親切で、喜ばなかったらお節介ということでしかないように思う。

 

 

 図書館で働いていたころ、職場の近くの古い喫茶店でよく昼食をとっていた。老夫婦二人でやっている小さな店で、そこの日替わりの定食が、友達の家に遊びに行ったときに出てくるご飯みたいで気に入っていた。

 

 ある日、珍しく旦那さんの方がレジに出てきていた。聞こえてきた世間話によれば旦那さんは何年か前に脳梗塞で手に麻痺が出てしまっていて、店でもレジ打ちくらいしかできなくなってしまったという。旦那さんは小銭を扱うのにものすごく時間がかかるので、私はその店に行くときはいつもぴったり出せるようあらかじめ小銭を作ってから行っていたのだが、その日は他の店に行こうとしたのが休みだったかから来たか何かで忘れていて、運悪く財布に一万円札しかなかった。

 

 財布を開けて一万円札しかないことに気付いた瞬間、「しまった」と思った。「ごめんなさい一万円札しかなくて」と仕方なく差し出す。震える手で一枚一枚小銭を手に取る旦那さん。もう昼休みの時間は残り10分程度しかない。ここであまり時間をかけて遅れると係長にどやされてしまう。「あの、すみません、大きいのしかなくて。外で崩してきます」と声をかけた。

 

 そのとたん、横で見ていた奥さんに「いいから!」と大きな声で制止された。

 

 私はびっくりして奥さんの顔を見た。どうやら怒っている様だ。結局旦那さんが全部の小銭を一人で渡してくれるまで、息が詰まりそうな無言の気まずい空間で2分程待ち、逃げるように店を出た。

店を出ていくとき、後ろから奥さんの声で「覚えてなさいよ」という恨めし気な呪詛が届いた。以来、その店には行っていない。

 

 

 思い返せば私も悪かったのだと思う。あの場合、お釣りを全部渡し終わるまで待ってあげるのが「親切」で、外のコンビニでお金を崩すという配慮をするのは「お節介」というか、余計なお世話だったのだろう。旦那さんがレジに立っていたのはリハビリも兼ねてのことで、お釣りを渡し終えることで「仕事をした」という社会復帰の意味合いが達成されるのだから、それを妨害するべきではなかった。それと同時に、「何で飯を食いに行って小銭がなかっただけであんな思いをさせられなきゃならなかったんだ」という反感のようなものもある。

 

 その後何年か経って、バスに乗る機会があった。バス待ちで並んでいた前が、杖をついたおじいさんだった。バスが来て扉が開いて、おじいさんは足が上がりづらいようだが自力でバスのステップを上がろうと頑張っていたので、私はおじいさんが上がり終わるまで待ってあげることにした。

しかし、私の後ろにいた人がぞろぞろ乗車口に集まってきて、おじいさんを抱えて持ち上げ始めた。おじいさんは抱えられて優先席に乗せられると「ありがとうなあ」と言って笑っていた。ああ、また間違えてしまった、と私は思った。この場合は「待たずに手伝ってあげる」が正解だったんだ。私にはもう何が何だかわからなくなった。

 

 例えば子供が駅のホームから線路に落ちた、とかなら「助ければいい」ということは明白だ。命は一つしかないし、反省の機会を奪うかもしれないなどという配慮はいらない。目の前を歩いている人が物を落としたときも、拾って渡してあげるのが正解だ。落としたものは後でいくら後悔しようが、手元に戻ってこないから。

しかし実際には、ほどんどの場合「助けたほうがいいか悪いか」という判断はものすごく難しい。何かができない人が一人で頑張っているとき、下手に手を出すとその人の成長を邪魔してしまうことになるのではないか?という懸念が常にある。かといって、一人ではどうしようもなくて途方に暮れているときに誰も助けてくれない社会が良いのかというとそれもどうかと思う。

 

 自分のことを思い返すと、定期券をなくしてしまったときに駅員さんが落ち着いた声で慰めてくれたときはすごく助かったし、病気になって不安な気持ちの時や精神的にショックなことがあったときなどに気を使ってでも優しくしてもらえたときは嬉しかった。だから人にも親切にしたいと思うのだが、脳は人によって一人一人形質が違うのだから、私がされて嬉しいことでも他人はそうは思わないかもしれないし、同じだという前提で想像することに果たして意味があるのかと考えてしまうのだ。実際親切でしたことが全然喜んでもらえなかったり不気味がられたりするということを何回もやっているので、疑心暗鬼にもなる。ただ、アドラー心理学風に考えると「単に行動するのが面倒くさいから屁理屈言っているだけでしょ」というようにも思える。それはそれで癪だ。

 

 結局お節介も親切も相手に受け取られた後でしか判定がわからないのだから、「たぶん喜んでもらえるだろう」という予想で行動して、別枠の考察ブログの方で書いた童磨みたいなキモいパワープレイに頼ってモデルケースを増やしていくしかない。おつりを渡すのが遅いおじいさんは待ってあげて、バスに乗るのが遅いおじいさんは手伝ってあげれば良い。私の親族には「この人はマジで人の気持ちを全くわからないしわかるつもりもないんだな」という人がちょこちょこおり、会うたびに私の外見について暴言を吐いてくるので、私はこれでもだいぶ人間らしくなった方なんだという自負がある。