みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

キング・オブ・ユーチューブ(2020年11月1日)

 個性には、「能力的個性」と「嗜好的個性」がある。

 「能力的個性」とは、個人が才能に時間と労力を積み重ねることで獲得する「能力」によって得られる差別化である。かわって「嗜好的個性」とは、何色が好きか、どんなことが苦手かなど、誰でもすぐにアピールできるような「嗜好」で個性を気取ったものを指す。

 「能力的個性」は身につけるのに時間がかかる上、努力しても才能の多寡により人によって伸びしろが異なり、何より苦痛を伴う。そこで、努力を諦めたものは、自らの自己顕示欲を満たすために嗜好的個性に走りがちになる。もっと悪化すると、「社会に自分を知ってもらえればそれでいい」と考えて、暴走族に入る等反社会的な行動に走ってでも「個性」を発揮しようとする。しかし、「嗜好的個性」は社会的に価値が認められることはないので、長期的な「幸福」にはつながらず、一時的な「快楽」しか得ることができない。長期的に幸福になるためには、苦労してでも「能力」を積み重ねていくしかない

 

 

…というようなことを、中学生の時道徳の時間に作文で発表したのを覚えている。

 

 

 授業自体は、先生に「その『能力的個性』とか『嗜好的個性』というのは自分で考えた言葉なのか」と聞かれて、そうだと答えてそれで終わってしまった。しかし、今の世の中の現状を見ていると、結局その枠組は全然変わっていないなと思う。変わったのは、暴走族が迷惑系YouTuberになっただけだ。

 『キング・オブ・コメディ』というロバート・デ・ニーロ主演の映画がある。成り上がりを目論む芸人志望の青年が、有名コメディアンを誘拐・監禁して無理矢理テレビ番組に出るというストーリーだ。映画「ジョーカー」とプロットが似ているということで近年話題になった。主人公のパプキンは、番組出演後は当然逮捕されてしまうのだが、刑期を終えた後、世間でも評判のコメディアンとして売れっ子になる。今現実でも、これと同じことが起きていると思う。

 しかしながら結局のところ、人は努力や時間や才能に対してしか金を払わない。これは「資本論」の考え方に基づく古典的な価値観ではあるが、長期的に見れば人間の賃金というのはそうやって決まっている(投資やマネーゲームで金から金を増やすやり方については、この限りでない)。メディアの力で捻じ曲げることができると言っても、それはほんの僅かな時間だ。パプキンの個性だって、長年コメディの研究をしてきた下積みや刑期中の執筆等真面目な努力があったからこそ受け入れられたのだ。

 能力があっても誰かに見つけてもらえなければそれを発揮することもできない、それは事実だと思う。しかし他人に「金を払ってもいい」と思わせるだけの能力的個性がなければ、結局のところは時の人としてコンテンツの山に埋もれていくだけだ。一時のバズりにかまけて誰でもできるような迷惑行為で再生数を稼ぐことは、生涯賃金で見ても悪手であると思う。それともメディアは「成り上がりモノ」や「公正した不良」に弱いから、今後そうした人達がメディアの権力によって定期的な収入を得られるような新時代が来るのだろうか。今のところは7:3くらいかなあと思っている。