みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

全賭けの階段(2023年8月6日)

 職場のオフィスが八階にあり、平日は毎朝一階から八階まで階段を上っている。エレベーターもあるのだが、運動量を確保するために八階まで階段を上ると決めているのだ。
 一階から上り始めて後ろから上ってくる人がいた場合、邪魔にならないように速く登る必要がある。八階まで階段を登るような人はそうそういないので、大抵の人は四階くらいでいなくなる。安心してゆっくり上っていこうとすると、今度は四階近くでまた後ろから上ってくる人が現れる。ゆっくり上っていると邪魔になるので、また足を速める。この状態になると、一階から八階までをものすごい速さで登らないといけなくなる。本当に息が切れて無理なときは踊り場で避けて道を譲るのだが、何となく自分に負けたような気がして悔しい。

 

 階段を上りながらよく考えるのだが、生まれた時からピアニストになるために育てられてピアノのためだけに人生費やしてきたのに、大人になってからピアノを始めた人の方が上手かったりしたらたまったものではないだろうなと思う。ピアノだけではなくスケートでも何でもいいのだが、積み重ねてきた時間が長ければ長いほど有利になるようなスキルについては、「小さい頃からやってる人には敵わないや」と感じてやる気がなくなるということが多々ある。しかし、子供の頃から1つのことだけやらされるというのは一種の「賭け」であって、賭けた時間が多ければ多いほど途中参加で半端に賭けてるような奴には負けられないというプレッシャーもずっと感じ続けなければならないだろう。事故や病気で突然賭けてきたことが全く続けられなくなるリスクもある。それはそれで大変な人生なはずだ。

 

 特に伝統芸能やクラシックの世界とかだと全賭け勢同士の全賭けの子供だらけの中で戦いが繰り広げられていて、どれだけの犠牲の上に成り立っているんだろうと気が遠くなる。先祖代々伝わる家系とかになるとその分上ってきた階段も高くなるわけで、芸術としての歴史が長くなるほどかかるプレッシャーが強くなる。そういう芸術は次第に外から人が参入しなくなって競争相手がいなくなり、最終的には比較対象がないために何が良いのか悪いのか誰も評価できなくなって廃れていくのだろう。ただ、全ての芸術がかけた時間だけで淘汰されてしまうわけではなくて良かったなとも思う。人気がなくて解散したバンドの曲をペースメーカーのように大事に聞き続けている人がいるように、これからも芸術は多様であり続けてほしい。