みやけばなし

高円寺でギター弾いてるやつの日記

存在しない財布の広告(2023年1月29日)

 美しい財布の広告を見つけて喜び勇んで実店舗に足を運んだら、写真と全然違ったことがある。写真ではオーロラカラーに光っているように見えたのに、実物は何と「光っているかのように波打った虹色の線が描かれているだけ」だったのだ。

 こういった事例は、特にネットショッピングをしていると枚挙にいとまがない。ネジが壊れていて組み立てられない机、写真と色が全然違うシャツ、スマホの重さを支えられないスマホスタンドなど、写真で見て「いいな」と思って買ったら実物は期待通りのものではなかった、というのはよくあることだ。実物を見て初めて、思い描いていた財布・机・シャツ・スマホスタンドはこの世に存在しなかったのだということを思い知らされる。

 これが例えば車のCMで馬やヒョウを一緒に走らせてみたり、山脈や晴れた砂浜を背景にしたりするのは、同じ嘘でも再現可能な嘘だからまだ許容される。その車を買って実際にエアーズロックを見に行くことはなくても、走っているときにそういう自分をイメージすることは可能だし、その楽しみは車の実物を手に入れても棄損されることはない。

 問題は、写真を撮るカメラマンに技量があり過ぎて、実物よりも異常に良く見えてしまう場合だ。特にハンドメイド作品なんかだと、写真を撮る側もノッてきてしまって、実物とは全く異なるモノとして、写真の方を「作品」にしてしまうのだと思う。そうやって撮られた写真自体は、確かに良い「作品」だろう。しかし、自分を構成するパーツの一つとして「オーロラカラーの財布が欲しい」と思って購入したにも関わらず、「虹色の波が描いてあるだけの水色の財布」が届いたら、単なる期待はずれでしかない。それでも、この世に存在しないとわかってなお、初めに見た写真を見ると良いものに思えたりする。その場合、実物ではなくその写真や広告に芸術性というか価値があるのだと思う。

 その写真から想起されたオーロラカラーの財布はこの世に存在しないとして、想起させてくれたこと自体には価値を認めざるを得ない。存在しないにも関わらず生まれたイメージというのは、私の頭の中にしか存在しない、つまり完全なオリジナルであるということだ。自分はこういうものが好きなのだという発見に結びつかせてくれる。それだけでものすごく価値がある。いやでもやっぱりオーロラカラーの財布欲しかったな。